成蹊学園発祥の地 ― 2008年06月02日 17:42
宮坂喆宗『断食と修養』序-中村春二 ― 2008年05月24日 16:24
『断食と修養』序
更に叉考ふれば造化の霊力によつて人と生れた我々の心は数多き感謝の念に充ちてゐなけれぱならないのに少しも感謝の念をもたずあまつさへ人と生れた事を咒ふものさへ出て来たことは驚くべき事実である。種々の食物を得て口腹を楽ましむることに就て感謝すべきであるのに味の良否を論じ病的味覚をますます発達させつつある今日まづ断食をして食事に就て威謝の念を痛切に起さしめねぱならぬ。
御飯をいただくといふ食事に就ての敬意ある詞が奥心から出る爲めには是非断食せねばならぬ。食事の好嫌を脱せん爲めには断食に限るのである。と同時にに私等はまづ冬一度裸体となつて酷寒を感じ衣服に対してて威謝しなければならぬ。又一度聴を断じ無言の行をして唖者聾者たらざりしことを感謝し又視を断じて盲者と生れざりし幸を感謝しなければならぬ。
更に人と断ちて山間に一ヶ月の孤独の生活を送つたら慈悲の念は求めずして起り人類は互に相憐み相助けざるべからざることを痛切に感ずるであらう。現今世界の大戦争は文明開化の費すべき当然の結果である。世界人類の反省を促す爲には妥協的平和は寧ろ害となる。真実心の底から我々の誤つた考であつた事に気がついた場合戦争災害は精神的救済の神である。人道一新の鍵であると思ふ。
かう考へると断食の修業は即ち造化に対して感謝の念を深からしめ森羅万象の微妙の働きに渇仰の眼を向けしめることが出来るのである。造化の造られた人類より遙かに遠ざかった文明の開化人たる我等はまづ「断」の一字っを深く考へて天地万有に対し感謝に充てる心を恢復しなければならぬ。
大正七年七月二〇日成蹊学園中村春二
更に叉考ふれば造化の霊力によつて人と生れた我々の心は数多き感謝の念に充ちてゐなけれぱならないのに少しも感謝の念をもたずあまつさへ人と生れた事を咒ふものさへ出て来たことは驚くべき事実である。種々の食物を得て口腹を楽ましむることに就て感謝すべきであるのに味の良否を論じ病的味覚をますます発達させつつある今日まづ断食をして食事に就て威謝の念を痛切に起さしめねぱならぬ。
御飯をいただくといふ食事に就ての敬意ある詞が奥心から出る爲めには是非断食せねばならぬ。食事の好嫌を脱せん爲めには断食に限るのである。と同時にに私等はまづ冬一度裸体となつて酷寒を感じ衣服に対してて威謝しなければならぬ。又一度聴を断じ無言の行をして唖者聾者たらざりしことを感謝し又視を断じて盲者と生れざりし幸を感謝しなければならぬ。
更に人と断ちて山間に一ヶ月の孤独の生活を送つたら慈悲の念は求めずして起り人類は互に相憐み相助けざるべからざることを痛切に感ずるであらう。現今世界の大戦争は文明開化の費すべき当然の結果である。世界人類の反省を促す爲には妥協的平和は寧ろ害となる。真実心の底から我々の誤つた考であつた事に気がついた場合戦争災害は精神的救済の神である。人道一新の鍵であると思ふ。
かう考へると断食の修業は即ち造化に対して感謝の念を深からしめ森羅万象の微妙の働きに渇仰の眼を向けしめることが出来るのである。造化の造られた人類より遙かに遠ざかった文明の開化人たる我等はまづ「断」の一字っを深く考へて天地万有に対し感謝に充てる心を恢復しなければならぬ。
大正七年七月二〇日成蹊学園中村春二
他力教育と自力教育-「導く人の為に」より ― 2008年05月24日 16:23
6.他力教育と自力教育-「導く人の為に」より
一体今日の人は学校教育が教育の全体である如く考へてゐるけれども、学校教育は教育の一少部分に過ぎないのである。教育は学校教育-学校で受ける教育-と、社会教育-社会生活によりて受ける教育-とに分つことが出来る。人間が本当に出来上るのは社会教育によるものであり、社会教育が寧ろ教育の本体なのである。学校教育は社会敷育の準備であり予備門であつて、社会教育の出来るため即ち社会生活から教育を受けることの出来る為めに、其の用意として学校教育を授けられるのだと考ふべきものである。
社会に出て生活をとげて行く間に、接触する百般の人事や字宙の森羅万象仁よりて、死ぬる際迄も教育を受けて自己を作り上げて行くのである。学校教育は謂はゞ他力教育であつて、人によりて教育せられ、社会教育は自力教育であつて、自から自己を教育して行くのである。この自力教育が教育の本領であつて、自力教育の出来るやうにと、他力的な学校教育は施されるのである。自力教育の出来る力の基を授けてやること、自から自己を教育することの出来るやうに眼を開いてやることが、学校教育の主眼とすべき所で若し学校教育にして、此の力を典へてやることが出来ず、此の眠を開いてやることが出来なかつたら、其の学校教育は全然失敗に終つたものと云はなければならぬ。また若し幼少年の時から、自分で自分を教育し得る力と眼とを有してゐる人であつたら、かヽる人は既に学校教育有を受けるには及ばない人で、寧ろ直ちに社会生活の活きた環境の中に飛び込んで行つたがよいのである。
然るに、今時の人の多くは、教育と云へば学校教育に限るものと思ひ、学校教育を終れば、もはや教育が終つたものヽやうに考へてゐる。之れは大なる間違ひと云はなければならぬ。大学を出れば、国民として受くべき最高の教育を受け了したと思ひ、実は漸く真の教育の門に入つただけに過ぎないことに気づかず、よい気になるものばかり多いのは、当人の心得違ひにもよることであるけれど、その指導者の不心得からと云はなければならぬ。教育は一生を通じて受くべきもの人生其のものが真の学校であり、生涯に亘りて接触する自然なり人事なりが、真の大教育者であることを、被教育者に了解させ、この学校に学び、この大教師に学ふことの出来るやうに、教育者は被教育者を指導して行かなければならぬものである。この為に其の眼を開いてやり、其のカを養つてやることが、学校教育の真意義である。今日の学校に於てはこの意義が没却され、今日の教育者はこの意味での教育を為し得てはゐないやうに思はれる。
一体今日の人は学校教育が教育の全体である如く考へてゐるけれども、学校教育は教育の一少部分に過ぎないのである。教育は学校教育-学校で受ける教育-と、社会教育-社会生活によりて受ける教育-とに分つことが出来る。人間が本当に出来上るのは社会教育によるものであり、社会教育が寧ろ教育の本体なのである。学校教育は社会敷育の準備であり予備門であつて、社会教育の出来るため即ち社会生活から教育を受けることの出来る為めに、其の用意として学校教育を授けられるのだと考ふべきものである。
社会に出て生活をとげて行く間に、接触する百般の人事や字宙の森羅万象仁よりて、死ぬる際迄も教育を受けて自己を作り上げて行くのである。学校教育は謂はゞ他力教育であつて、人によりて教育せられ、社会教育は自力教育であつて、自から自己を教育して行くのである。この自力教育が教育の本領であつて、自力教育の出来るやうにと、他力的な学校教育は施されるのである。自力教育の出来る力の基を授けてやること、自から自己を教育することの出来るやうに眼を開いてやることが、学校教育の主眼とすべき所で若し学校教育にして、此の力を典へてやることが出来ず、此の眠を開いてやることが出来なかつたら、其の学校教育は全然失敗に終つたものと云はなければならぬ。また若し幼少年の時から、自分で自分を教育し得る力と眼とを有してゐる人であつたら、かヽる人は既に学校教育有を受けるには及ばない人で、寧ろ直ちに社会生活の活きた環境の中に飛び込んで行つたがよいのである。
然るに、今時の人の多くは、教育と云へば学校教育に限るものと思ひ、学校教育を終れば、もはや教育が終つたものヽやうに考へてゐる。之れは大なる間違ひと云はなければならぬ。大学を出れば、国民として受くべき最高の教育を受け了したと思ひ、実は漸く真の教育の門に入つただけに過ぎないことに気づかず、よい気になるものばかり多いのは、当人の心得違ひにもよることであるけれど、その指導者の不心得からと云はなければならぬ。教育は一生を通じて受くべきもの人生其のものが真の学校であり、生涯に亘りて接触する自然なり人事なりが、真の大教育者であることを、被教育者に了解させ、この学校に学び、この大教師に学ふことの出来るやうに、教育者は被教育者を指導して行かなければならぬものである。この為に其の眼を開いてやり、其のカを養つてやることが、学校教育の真意義である。今日の学校に於てはこの意義が没却され、今日の教育者はこの意味での教育を為し得てはゐないやうに思はれる。
成蹊実務学校設立趣旨 ― 2008年05月24日 16:20
成蹊実務学校設立趣旨
その一
現今の世ではもう初等教育だけでは世に役に立てなくなりました。然し中等教育をうけるには少なからぬ学資が入る上に左の様な欠点があるように思われます。
中学校-全く高等教育の予備で、志操の堅実なものは少なくないものの、卒業後直ちに実務に当るに適しない。
各種専門学校商業学校、農業学校-実地に応用しうべき知識技能を学び一寸役に立つものの、向上の精神に乏しく、小成に安んじ国家の中堅となる望みが少ない。
この両者の欠点を去り、美点のみをとってやりたい。即ち役にも立つし、向上の精神に富み、奮闘自研、他日高等教育を受けたものと比肩し得る人物をつくりたいとの事。
その二
教育の形式的設備の整頓に伴い修学費用が非常に多くなり、学生の風儀も日増しに奢侈になりゆくので、中流以下の子弟は中学校の学科を実際的のものとしても、その中学の課程さえ修めることができないものが非常に多いゆえ、月謝、制服、教科書等の費用をとらずに、これら不幸になる子弟のために成功の鍵を握らせたいという事。
その三
学校が工場のように規則づくめで多人数を一様に制禦する傾向ある今日、生徒の定員を減じ、懇切に教授薫陶して、各人天賦の能力を充分に発揮せしめて教育の力を充分にしたいという事。
その四
師道の廃頽は随分甚しい。かく師弟の心の共鳴の乏しくては、品性の陶冶などは到底六ヶしいゆえ、是非昔のような美しい師弟の情誼を発揮して、荒んだ教育の野に清い泉を流れしめたいという事。師弟問の情誼を厚くすることが、即ち教育の効果を偉大ならしむる所以と信じます。
右の様な考えから一つ新しい中等程度で終る実際的な学校をたてて、将来有望の少年の養成を試みたいと考えたのです。翻って杜会の現状をみると、生存競争が漸く激しくなり、貧富の差が益々甚しく自暴自棄の徒も日増しに多く、種々な危険の思想も頭を出し始めました。所謂慈善事業はこの窮状をゆるめることは事実でしょうが、これはただ病気の時の薬のようなもので、時にその薬がききすぎて弊害が起ることもないでもない。憂国の人は根本的社会救済を試みなければならないと思います。根本的救済は他でもない社会の多数に着実勤勉力行の貴むべきことを知らせると共に、その家を支え身を立てる実力を与うることです。この様な覚悟と実力とは何に依て与えらるるかというと、即ち教育にあります。ところが、その教育なるものが、国家の保護は只初等教育だけしかない今日、小学を卒業した許りでは、現今自立自活の力を与えられませぬ。こうなると、中流以下の人々は社会の進運から疎外せられて国家団結の根底を傷つくる様な危険思想は漸く彼等の間に勢力を養い来ることはやむをえますまい。私は中等教育を受けられないで泣いている数多い有為な少年に度々接して遂に微力を顧みず、現今社会の欠陥を補わんために働く一人となろうと決心した折から、岩崎・今村両君は私の微衷を容れられ、深大なる同情協賛を与えられたので、遂にこの学校を創設することとなったのです。
明治四十四年十月
賛助員
男爵岩崎小弥太
今村繁三
設立者中村 春二
その一
現今の世ではもう初等教育だけでは世に役に立てなくなりました。然し中等教育をうけるには少なからぬ学資が入る上に左の様な欠点があるように思われます。
中学校-全く高等教育の予備で、志操の堅実なものは少なくないものの、卒業後直ちに実務に当るに適しない。
各種専門学校商業学校、農業学校-実地に応用しうべき知識技能を学び一寸役に立つものの、向上の精神に乏しく、小成に安んじ国家の中堅となる望みが少ない。
この両者の欠点を去り、美点のみをとってやりたい。即ち役にも立つし、向上の精神に富み、奮闘自研、他日高等教育を受けたものと比肩し得る人物をつくりたいとの事。
その二
教育の形式的設備の整頓に伴い修学費用が非常に多くなり、学生の風儀も日増しに奢侈になりゆくので、中流以下の子弟は中学校の学科を実際的のものとしても、その中学の課程さえ修めることができないものが非常に多いゆえ、月謝、制服、教科書等の費用をとらずに、これら不幸になる子弟のために成功の鍵を握らせたいという事。
その三
学校が工場のように規則づくめで多人数を一様に制禦する傾向ある今日、生徒の定員を減じ、懇切に教授薫陶して、各人天賦の能力を充分に発揮せしめて教育の力を充分にしたいという事。
その四
師道の廃頽は随分甚しい。かく師弟の心の共鳴の乏しくては、品性の陶冶などは到底六ヶしいゆえ、是非昔のような美しい師弟の情誼を発揮して、荒んだ教育の野に清い泉を流れしめたいという事。師弟問の情誼を厚くすることが、即ち教育の効果を偉大ならしむる所以と信じます。
右の様な考えから一つ新しい中等程度で終る実際的な学校をたてて、将来有望の少年の養成を試みたいと考えたのです。翻って杜会の現状をみると、生存競争が漸く激しくなり、貧富の差が益々甚しく自暴自棄の徒も日増しに多く、種々な危険の思想も頭を出し始めました。所謂慈善事業はこの窮状をゆるめることは事実でしょうが、これはただ病気の時の薬のようなもので、時にその薬がききすぎて弊害が起ることもないでもない。憂国の人は根本的社会救済を試みなければならないと思います。根本的救済は他でもない社会の多数に着実勤勉力行の貴むべきことを知らせると共に、その家を支え身を立てる実力を与うることです。この様な覚悟と実力とは何に依て与えらるるかというと、即ち教育にあります。ところが、その教育なるものが、国家の保護は只初等教育だけしかない今日、小学を卒業した許りでは、現今自立自活の力を与えられませぬ。こうなると、中流以下の人々は社会の進運から疎外せられて国家団結の根底を傷つくる様な危険思想は漸く彼等の間に勢力を養い来ることはやむをえますまい。私は中等教育を受けられないで泣いている数多い有為な少年に度々接して遂に微力を顧みず、現今社会の欠陥を補わんために働く一人となろうと決心した折から、岩崎・今村両君は私の微衷を容れられ、深大なる同情協賛を与えられたので、遂にこの学校を創設することとなったのです。
明治四十四年十月
賛助員
男爵岩崎小弥太
今村繁三
設立者中村 春二
成蹊園とは何ぞ ― 2008年05月24日 16:18
成蹊園とは何ぞ
素山
そして叉中村君の夫人も同じ様に世話ずきであるから円満に監督が行くのである。扨てかうして中村君が今村岩崎両君の意を体し道楽的に學生の世話をしてみると。秀才は學間の方には世話はかからないで極めて樂であるが、兎角才が走ると自己本位となりやすく。人格の涵養に就ては學校は少しも留意しないので。非常に残念に思ひ、時には僕に向つて。一たい學生の世話は世話その事が美しい事と覚悟はしても、時々世話甲斐のない事實に出遇ふと心細くつい方針をかへたくなると話された事もある。どう方針をかへるのかと聞くと世話甲斐のある様にするには、學才本位を捨て人物本意にするに限る。學力は中等で人物のよい物を世話すれば世話甲斐は必ずあるからと云はれた事もあつた。實にこの考は世話甲斐のあることを望む人々に向つてのい上ヒントである。
▲が中村君は叉考なほし、學才のあるものをよく仕立たならば鬼に金棒、大に國家の爲めに盡くしうる人となろう。退嬰圭義を捨てて更に一歩をすすめて才學のあるものに人物本意の教育を施してみたいと思はれたのであつた。即ち今の一般の學校は學間をつぎこむところで、人物養成に没交渉であるゆゑ、この一般の學校の弊即ち學校は學術を教ふる所なりとの狡義を破り、一般の學校をして人格養成に留意せしむる爲めに、自ら學校を立てて、世人を警醒せしめ才學人格雨備の人材を出さうと企てられたのである。
▲この中村君の考は更に種々なる社会の欠陥と結びついて遂に無月謝で中學教育を實施して一生その卒業生を引立てやうとする企となり、岩崎今村両君の熱心なる賛成を得てこの成蹊園の外に、新に成蹊實務學校なる特種學校が、東京市外池袋に設立せられ、この學校の爲め岩崎今村爾君は更に毎年六千圓を支出せらるることになつた
のである。
素山
そして叉中村君の夫人も同じ様に世話ずきであるから円満に監督が行くのである。扨てかうして中村君が今村岩崎両君の意を体し道楽的に學生の世話をしてみると。秀才は學間の方には世話はかからないで極めて樂であるが、兎角才が走ると自己本位となりやすく。人格の涵養に就ては學校は少しも留意しないので。非常に残念に思ひ、時には僕に向つて。一たい學生の世話は世話その事が美しい事と覚悟はしても、時々世話甲斐のない事實に出遇ふと心細くつい方針をかへたくなると話された事もある。どう方針をかへるのかと聞くと世話甲斐のある様にするには、學才本位を捨て人物本意にするに限る。學力は中等で人物のよい物を世話すれば世話甲斐は必ずあるからと云はれた事もあつた。實にこの考は世話甲斐のあることを望む人々に向つてのい上ヒントである。
▲が中村君は叉考なほし、學才のあるものをよく仕立たならば鬼に金棒、大に國家の爲めに盡くしうる人となろう。退嬰圭義を捨てて更に一歩をすすめて才學のあるものに人物本意の教育を施してみたいと思はれたのであつた。即ち今の一般の學校は學間をつぎこむところで、人物養成に没交渉であるゆゑ、この一般の學校の弊即ち學校は學術を教ふる所なりとの狡義を破り、一般の學校をして人格養成に留意せしむる爲めに、自ら學校を立てて、世人を警醒せしめ才學人格雨備の人材を出さうと企てられたのである。
▲この中村君の考は更に種々なる社会の欠陥と結びついて遂に無月謝で中學教育を實施して一生その卒業生を引立てやうとする企となり、岩崎今村両君の熱心なる賛成を得てこの成蹊園の外に、新に成蹊實務學校なる特種學校が、東京市外池袋に設立せられ、この學校の爲め岩崎今村爾君は更に毎年六千圓を支出せらるることになつた
のである。
新教育会から成蹊教育会 ― 2008年05月23日 22:47
城西実務学校 ― 2008年05月23日 22:45
世田谷学園80周年 ― 2008年05月23日 22:44
成蹊園について ― 2008年05月23日 22:26
「北方教育」創刊前後-滑川道夫 ― 2008年05月23日 20:57
北方教育-実践と証言-
北方教育同人懇話会編
東京法令昭和54年
「北方教育」創刊前後
滑川道夫
・・・三浦修吾(みうら・しゅうご)の『学校教師論』は大正六年に出版されていたが、先輩に借りて読んで感動したことを思い出す。自叙伝的な教師論で、人生論的で、経験を土台にしての教師論であった。教科書にある観念的な教師論とはまったくちがったものであった。紀平正美の人格哲学が背後に在ったような気がする。学校の教科書などの知識は大したことがないので、実際の教育的事実に目を向けて研究しなければならないことが書かれていた。いまの教育は生徒の内生活と没交渉であるから、生徒に重荷になることがあっても、その力になることがないと書かれていて、なんどもうなずいて、アンダーラィンを引いたものである。この本のなかで、著者が個性を圧する作文教授をなげいて、名文や能文を書かせるのではなく、ほんとうの文章を書かせるべきだと、来訪の師範生に語るところがあった。自分の生活から自然に出てきた文章がいいのだ、自分の生活をあらわした文章であったら名文だ、という意味のことが書かれていた。これが私の最初に経験した綴り方教育開眼といっていいものである。こういう考えかたは大正六年以前にもあったかもしれないが、私が出会った最初のものであった。その例として、成蹊小学校の作文があげられていた。そのときは後年私が成蹊小学校に勤務するなどとは夢にも思っていなかったし、成蹊という活字印刷の文字に接した最初であった。師範の生徒時代に中村春二園長の講演を聞いたことがあった。精神統一法を説いて、魔術みたいに掌や耳に針をつきさして血が出ないのを見せた。時代離れをしているようで、ちゃらんぼらんにうわの空で話を聞いたように思う。その成蹊に昭和七年に赴任することになるのだから、ふしぎといえばふしぎな出会いといえそうだ。その成蹊小学児童の作文というのは、後年、私が成蹊学園教育研究所長時代、史料をあさっていたら、成蹊教育運動の機関誌『新教育』に載っていた。この綴り方が書かれたのは『赤い鳥』が創刊される一年前の大正六年である。芦田恵之助が『新教育』(第二巻第三号)に「与えられたる天地に個性を発揮せよ」と訴えた年である。三浦修吾は『新教育』誌上の「電信ばしら」の文章を読んで、つぎのような感想を寄せていることがわかった。
「私の年来期待していたものがはじめてここにあらはれてゐると思った。……真実の文をかくことを子供に教へ得る教師は教育の全体をよく行ひ得る教師である。」(大正六年十月三十一日)
この作品を指導したのは、成蹊小学校訓導桂田金造(かつらだ・きんぞう)で、芦田恵之助の『綴方十ニケ月』や『尋常小学校綴方教授書』(巻一)よりも早い時点で『尋常一年の綴方』(大正六年十一月二十日刊)を世に問うて、文章主義や写生主義を克服して、綴り方は生活に立脚する自己の発表、ただそれ以外の何ものでもないと喝破している。これは卓見であった。これも後で発見したことであるが三浦修吾は、成蹊実務学校の作文の教師をしていたことがある。とにかくこの『学校教師論』は、新卒の私に教育のむずかしさとともに、教育者の生きがいを感じさせたと思う。この感動を、山本郡鶴形小学校に勤務する佐々木太一郎(昂)や河辺郡にいる堀井喜一郎に書き送ったのである。
電信ばしら
成蹊小学校二年 納村泰二
学校の前に、電信柱がたくさん立ってゐます。太いのもあ
れば、細いのもあります。又線がくものすの様にたくさんつ
いてゐるのもあれば、少ししかついてゐないのもあります。
あの線があれば、どこにでも電気がつたはるのだから、面白
うございます。電気はどうしてつたはるのでせう。電信ばし
らは、ふしぎなものです。そばに行ってしづかにきいてゐる
と、いつもゴウゴウとうなってゐます。あの音はなんでせう。
電信ばしらには、鳥がとまってゐることがあります。又工夫
がのぼってゐることもあります。ちかごろでは、よく、凧の
やぶれたのがひっかかってゐます。(終)
北方教育同人懇話会編
東京法令昭和54年
「北方教育」創刊前後
滑川道夫
・・・三浦修吾(みうら・しゅうご)の『学校教師論』は大正六年に出版されていたが、先輩に借りて読んで感動したことを思い出す。自叙伝的な教師論で、人生論的で、経験を土台にしての教師論であった。教科書にある観念的な教師論とはまったくちがったものであった。紀平正美の人格哲学が背後に在ったような気がする。学校の教科書などの知識は大したことがないので、実際の教育的事実に目を向けて研究しなければならないことが書かれていた。いまの教育は生徒の内生活と没交渉であるから、生徒に重荷になることがあっても、その力になることがないと書かれていて、なんどもうなずいて、アンダーラィンを引いたものである。この本のなかで、著者が個性を圧する作文教授をなげいて、名文や能文を書かせるのではなく、ほんとうの文章を書かせるべきだと、来訪の師範生に語るところがあった。自分の生活から自然に出てきた文章がいいのだ、自分の生活をあらわした文章であったら名文だ、という意味のことが書かれていた。これが私の最初に経験した綴り方教育開眼といっていいものである。こういう考えかたは大正六年以前にもあったかもしれないが、私が出会った最初のものであった。その例として、成蹊小学校の作文があげられていた。そのときは後年私が成蹊小学校に勤務するなどとは夢にも思っていなかったし、成蹊という活字印刷の文字に接した最初であった。師範の生徒時代に中村春二園長の講演を聞いたことがあった。精神統一法を説いて、魔術みたいに掌や耳に針をつきさして血が出ないのを見せた。時代離れをしているようで、ちゃらんぼらんにうわの空で話を聞いたように思う。その成蹊に昭和七年に赴任することになるのだから、ふしぎといえばふしぎな出会いといえそうだ。その成蹊小学児童の作文というのは、後年、私が成蹊学園教育研究所長時代、史料をあさっていたら、成蹊教育運動の機関誌『新教育』に載っていた。この綴り方が書かれたのは『赤い鳥』が創刊される一年前の大正六年である。芦田恵之助が『新教育』(第二巻第三号)に「与えられたる天地に個性を発揮せよ」と訴えた年である。三浦修吾は『新教育』誌上の「電信ばしら」の文章を読んで、つぎのような感想を寄せていることがわかった。
「私の年来期待していたものがはじめてここにあらはれてゐると思った。……真実の文をかくことを子供に教へ得る教師は教育の全体をよく行ひ得る教師である。」(大正六年十月三十一日)
この作品を指導したのは、成蹊小学校訓導桂田金造(かつらだ・きんぞう)で、芦田恵之助の『綴方十ニケ月』や『尋常小学校綴方教授書』(巻一)よりも早い時点で『尋常一年の綴方』(大正六年十一月二十日刊)を世に問うて、文章主義や写生主義を克服して、綴り方は生活に立脚する自己の発表、ただそれ以外の何ものでもないと喝破している。これは卓見であった。これも後で発見したことであるが三浦修吾は、成蹊実務学校の作文の教師をしていたことがある。とにかくこの『学校教師論』は、新卒の私に教育のむずかしさとともに、教育者の生きがいを感じさせたと思う。この感動を、山本郡鶴形小学校に勤務する佐々木太一郎(昂)や河辺郡にいる堀井喜一郎に書き送ったのである。
電信ばしら
成蹊小学校二年 納村泰二
学校の前に、電信柱がたくさん立ってゐます。太いのもあ
れば、細いのもあります。又線がくものすの様にたくさんつ
いてゐるのもあれば、少ししかついてゐないのもあります。
あの線があれば、どこにでも電気がつたはるのだから、面白
うございます。電気はどうしてつたはるのでせう。電信ばし
らは、ふしぎなものです。そばに行ってしづかにきいてゐる
と、いつもゴウゴウとうなってゐます。あの音はなんでせう。
電信ばしらには、鳥がとまってゐることがあります。又工夫
がのぼってゐることもあります。ちかごろでは、よく、凧の
やぶれたのがひっかかってゐます。(終)




