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この映像が何かわかったらたいしたものだと思います。

吉祥寺2008年05月18日 01:11

吉祥寺
吉祥寺

吉祥寺-32008年05月18日 01:13

吉祥寺-3
吉祥寺-3

吉祥寺-22008年05月18日 10:46

吉祥寺-2
吉祥寺-2

学校教師は奉公人-三浦修吾『学校教師論』より2008年05月18日 10:48

学校教師は奉公人

 私は宗教を学び、文芸を味わったりしたのは、道楽のためではなかった。それによって自分の仕事に徹底する力を得ようというのであった。けれど私はその力を得ることの代わりに、私の生活をかえって、雑駁のものにしてしまった。

 私は自分の生活、自分の仕事の中に、一切を見出して行かなけれぱならないのである。自分の仕事に徹し得ないで、他の何物にか徹しようと試みてもそれは駄目である。いずれにも徹しないで、終わらなけれぱならぬ。私の仕事、私の生活の中に、芸術もあれば、哲学も宗教もあるのであった。私は私自身の哲学宗教芸術を、私自身の生活に求めて行かなけれぱならぬ。外に向かって他人の哲学芸術を求むべきではなかった。

 私は、修養のために、宗教をも哲学をも学んでいる積りであった。けれど修養は自分の生活そのものの中に求むぺきものである。修養は閑事業であってはならない。仕事の暇には、修養にも心がけるというのは、仕事の意識をも、修養の意味をも知らないのである。修養は副業であってはならぬ。修養は生活そのものであり、生活が修養であらねぱならぬ。そうでなければ、人は仕事にも、修養にも真剣であることは出来ない。真剣でなくては、仕事でも修養でも、徹して行くものでない。我が生活、我が仕事は、我が生命の進行である。我が生命の進行の途上にのみ、我を活かし、我を輝かすものは横たわっているのである。横道にはいったり、道草を喰ったりして、他人の花園をのぞいているようでは、気まぐれにはなっても、自分のものになるべき花実を手にする事は出来ない。

 私は自分の生活の革新期にはいったように思った。今までとは、全く違った態度で仕事をして行こうと覚悟をしていた。その時、私は再び大患に襲われた。しかして今までの仕事を擲たなけれぱならぬようになった。生活の革新期が本当にやって来たのであった。

強牡と健康とは別-三浦修吾『学校教師論』より2008年05月18日 10:52

強牡と健康とは別

 私が、教師は健康でなけれぱならぬ-強壮でなくともよい-というわけのその第一のものはこれであるのである。教師は強壮で、運動場で、生徒と力の角逐をすることができなくともよい。

 この平静な気分だけは、瞬時といえども乱さないようにする。でなけれぱ、教師としての生命を全うすることはできないのである。これは、学識よりも以上に、教師によりて心せらるべきものである。この平穏な心の態度さえ、たしかに保ち得たならぱ、教師のその他の短所は、これによって償われて余りがあるのである。学識よりも教育にもっと必要な、教師の知恵は、この平穏の心から、時に応じ変に臨みて、自然に湧いて出て来るであろう。

 この気分は、運動家たる人が、必ずしも持ち得るものではない。それは、運動家は、いつも健康なものとはいわれないからである。いや、事実は、多くの場合、運動家は不健康であることを語っている。自分で健康の勝れていない私は、どうして健康というものは得られるかというような事は述べないことにしよう。それは、ここには最も大事な問題であるけれど、私はこれを他の人に譲らなければならぬ。

不健康な教師のもつ強い教育力-三浦修吾『学校教師論』より2008年05月18日 10:52

不健康な教師のもつ強い教育力

 だが、生徒と運動をともにすることの必要を説いた時に言ったと同じように、ここでも私は健康の上に立つものは精神であるということを言わなけれぱならぬ。病身であったりしては、教師としての第一資格が欠け、それでは教師としては価値がないのであるかというと、必ずしもそうではない。教師の精神のありよう一つでは、病者といえども、力強い教育的影響を生徒の上に及ぽして行く事が出来るのである。

 健康な教師は、すらすらと安らかな態度で、生徒にすらすらと安らかな心持ちで勉強して行くことのできる力を与える。これははなはだ希わしきことである。だが、教師が病身である場合、常に旺盛な精神の力で、肉の苦痛と戦いつつそれに打ち克ちつつ進んで行くという態度は、また生徒に別種の感化を与えるもので、力強い、沈痛な、引き締まった、戦闘の気分を彼らに示すものである。

 生徒が師範学校の上級生などであった場合には、教師のこの内的苦闘が、彼らに底深い力の感じを与えるものである。この戦闘の中から、絞り出されたような教師の実感の声は、彼らの魂の髄の髄にまで喰い入って行くような力をもつもので、彼らの魂の奥底に力の発動を感じさせることが出来るのである。病身の教師といえども、決して失望してはならない。

 彼の病苦に堪える精神の力は、普通の健康者では、知り得ない、人格の力を生み出すもので、それに宗教的または道義的の信念が加わった場合は、何人も企て得ない、人を動かす力となって発現するに至るであろう。私は、私のこの論に聴いて下さる人々への、参考までに、私が十年近くの間、戦いぬいて来た病苦の経歴をあらまし御示ししようと思う。

キリストは教師の典型-三浦修吾『学校教師論』より2008年05月18日 10:54

キリストは教師の典型

 真実の教師になりたいとは、教師たることを志した時の、私の最初の願いであった。私が考えていた真実の教師というのは、温和で崇高な心をもった教師のことであった。

 キリストは、教師の典型であると思った。私はそういう教師に作り成そうという望みから、キリスト教を学ぷようになった。学ぷに従って、キリストの人格なり、キリストの教えについて、私はますます深い味を感ずることが出来るようになった。それが私の性情の上にはなんらかの影響を与えていることであろう。けれど、私はキリスト教を自已の生命とすることは出来なかった。それは私の行き方が足りなかったのであるか知れぬけれど、私は自分で行き得るところまでは行ったのであった。

 私は一の芸術、または詩として、私の性情の一面に触れさせるだけにしか、かかる教えをとり入れることが出来なかった。西の空に漂うて居る夕雲の美しいのを仰ぐような心持ちでしか、かかる教えに対することは出来なかった。それが私の人格全体に作用して、私の生命とはならなかった。しかして私自身はそれで満足することが出来なかった。

 私の身世の波欄曲折は、私の心をあおりにあおって、私の求めて止まざる心をますます強くした。私は仏教にも心を潜めてみた。文芸や、近代の種々の思想をも味わってみたけれどすべてが同じ結果を与えるに過ぎなかった。名画の前に立った時には自分の存在を忘れて、画中の人になってしまうように、私がそれらの教えや思想を味わっている間は、それが私の全部で、私の生命がその中にあるように思った。けれど、それらから離れると、自分は全くそれらとは別のものであった事に気づく。時にはそれらから来た思想が、私の内部に強く働くことがあって、私は自身の生命を披瀝しているかのような心持ちで、それらから得たものを語りもし、書きもし、またそれによって行をもしていた。

 けれどそれは皆うそであった。一時の現象に過ぎないで、間もなく私はまた元の私に返る。それらの教えや、それらの思想と離れて、どうしても別に私自身というものがなけれぱならぬ。身世の波欄の間に、自ら経験して来たものは、そうした外からの思想や教えよりも、私にはより多く近いものであった。私は悟り得たようなまた解脱し得たような経験を、その時その時にはたしかに掴み獲ているようであった。けれどその境涯を通り抜けてしまった時には、そういう内部経験も、私の後に残されて、私の身にはついて来ない。自分の経験でさえも触れることの出来ない私自身というものが、別にまだあるのだと言わなけれぱならぬ。私はその私自身を突きとめたかった。もう神を知りたいなどという要求はないようになった。自分を知りたくなったのである。

 それから教えや思想というのに対して、あまり信用をおくことが出来ないようになった。すると一層私自身は空漢を感じて仕方がなくなってきた。

いかにして生きるか-三浦修吾『学校教師論』より2008年05月18日 10:56

いかにして生きるか

 教訓や、書籍を離れて、活きた実際の世の中には入り込んで見ようという心になって、様々の社会や、階級の人に接してみた。深く接触してみた。それは人を知らんがためではなくして、何かに突き当たって、そこに露出される自己を見たかったのである。

 思い切った行動をもあえてしてみた。私には、もはや死ということは問題ではなかった。死ぬることは容易であると思った。死に対する解決は困難なるものとは思われなかった。私にとりてのより大なる問題は、生であって、それは自己を突きとめてみるのでなけれぱ、どんなに他人の思想に沈潜しても、それは概念を得るに止まって、生の関門は私の前には開かれないのである。

 他人の思想を取り入れる事はかえってその妨害になるのだと思った。しかしどんなにしても、自分というものは影のように、煙のようにして捕捉することが出来ない。苦しいことがあったり、家族のものが死亡したり、自分が病気になったり、自分の外部に属するものが失われる度に自己を包み隠している外皮が、一皮剥ぎとられて、自己の内実に近づいて行くように思うけれど、それさえ果てしがないのである。

 大患のために臥して、死を前に控えている時、私は最も強く白己の生命の充実を感ずるのであった。起って教壇に上ったとき、生徒に面した時、私はまた空疎に返ってしまう。私の声調は、朗々として力があった。生徒は私の一言一句をも聞き洩らさじとするかのじとく、眼を瞠り耳を傾け、また忙わしくペンをノートの上に走らせていた。彼らはまた私に聴こうとして、たびたび家に訪れて来た。夜ふけるまでも語りつづけることを、彼らは輝いた顔をもって聞いていた。私はそれに得意になることもあったけれど私の語るところは私自身ではなく、私が書籍や他人から借りてた来たものに過ぎなかった。彼らと語っている間、そこには私自身は居ないで、他の人や他の思想が、私の坐を占領して、対者と語っていたに過ぎないのである。独り坐して、何もしないでいる時には、自分の姿が髣髴とするようであるけれど、書籍に向かったり、人と対坐するとその姿はどこへか消えて行って、別の何ものかが私の占むべき空間を領している。対者に向かって、得意になって論談している時など、どこの隅にか私自身が潜んでいて、それを冷笑していることもある。

 私が書物を遠ざけたのはこうした悩みからであった。私は何事をも人に教えることは出来ないのだと思った。何事をも言うことが出来ないぱかりではない、何物をも為すことが出来ないのだと思った。語ればみんなそれがうそになる。為せぱみんなそれがうそになる。真実語らざるを得ず、奏為さざるを得ずして、云為することのあるまで、何をも言わず何をも為すべきでないと思った。私の平生言っていることも、また為していることも、為さざるを得ず、言わざるを得ず、すなわち私自身から止むを得ずして出ているのではなかった。

 花の咲き出づるように、鳥の歌うように、雲雨の生起するように、風の動き水の流れるように、真実自然のものでないのである。語れぱ語るほど為せぱ為すほど、私はうそにうそをを重ねて、ますます私自身というものを分らぬものにしてしまう。私は思索をさえしてはならないと思った。

三浦修吾の墓(旧)2008年05月18日 11:05

三浦修吾の墓(旧)
三浦修吾の墓(旧)