強牡と健康とは別-三浦修吾『学校教師論』より ― 2008年05月18日 10:52
強牡と健康とは別
私が、教師は健康でなけれぱならぬ-強壮でなくともよい-というわけのその第一のものはこれであるのである。教師は強壮で、運動場で、生徒と力の角逐をすることができなくともよい。
この平静な気分だけは、瞬時といえども乱さないようにする。でなけれぱ、教師としての生命を全うすることはできないのである。これは、学識よりも以上に、教師によりて心せらるべきものである。この平穏な心の態度さえ、たしかに保ち得たならぱ、教師のその他の短所は、これによって償われて余りがあるのである。学識よりも教育にもっと必要な、教師の知恵は、この平穏の心から、時に応じ変に臨みて、自然に湧いて出て来るであろう。
この気分は、運動家たる人が、必ずしも持ち得るものではない。それは、運動家は、いつも健康なものとはいわれないからである。いや、事実は、多くの場合、運動家は不健康であることを語っている。自分で健康の勝れていない私は、どうして健康というものは得られるかというような事は述べないことにしよう。それは、ここには最も大事な問題であるけれど、私はこれを他の人に譲らなければならぬ。
私が、教師は健康でなけれぱならぬ-強壮でなくともよい-というわけのその第一のものはこれであるのである。教師は強壮で、運動場で、生徒と力の角逐をすることができなくともよい。
この平静な気分だけは、瞬時といえども乱さないようにする。でなけれぱ、教師としての生命を全うすることはできないのである。これは、学識よりも以上に、教師によりて心せらるべきものである。この平穏な心の態度さえ、たしかに保ち得たならぱ、教師のその他の短所は、これによって償われて余りがあるのである。学識よりも教育にもっと必要な、教師の知恵は、この平穏の心から、時に応じ変に臨みて、自然に湧いて出て来るであろう。
この気分は、運動家たる人が、必ずしも持ち得るものではない。それは、運動家は、いつも健康なものとはいわれないからである。いや、事実は、多くの場合、運動家は不健康であることを語っている。自分で健康の勝れていない私は、どうして健康というものは得られるかというような事は述べないことにしよう。それは、ここには最も大事な問題であるけれど、私はこれを他の人に譲らなければならぬ。