「北方教育」創刊前後-滑川道夫2008年05月23日 20:57

北方教育-実践と証言-
北方教育同人懇話会編
東京法令昭和54年
「北方教育」創刊前後
滑川道夫

・・・三浦修吾(みうら・しゅうご)の『学校教師論』は大正六年に出版されていたが、先輩に借りて読んで感動したことを思い出す。自叙伝的な教師論で、人生論的で、経験を土台にしての教師論であった。教科書にある観念的な教師論とはまったくちがったものであった。紀平正美の人格哲学が背後に在ったような気がする。学校の教科書などの知識は大したことがないので、実際の教育的事実に目を向けて研究しなければならないことが書かれていた。いまの教育は生徒の内生活と没交渉であるから、生徒に重荷になることがあっても、その力になることがないと書かれていて、なんどもうなずいて、アンダーラィンを引いたものである。この本のなかで、著者が個性を圧する作文教授をなげいて、名文や能文を書かせるのではなく、ほんとうの文章を書かせるべきだと、来訪の師範生に語るところがあった。自分の生活から自然に出てきた文章がいいのだ、自分の生活をあらわした文章であったら名文だ、という意味のことが書かれていた。これが私の最初に経験した綴り方教育開眼といっていいものである。こういう考えかたは大正六年以前にもあったかもしれないが、私が出会った最初のものであった。その例として、成蹊小学校の作文があげられていた。そのときは後年私が成蹊小学校に勤務するなどとは夢にも思っていなかったし、成蹊という活字印刷の文字に接した最初であった。師範の生徒時代に中村春二園長の講演を聞いたことがあった。精神統一法を説いて、魔術みたいに掌や耳に針をつきさして血が出ないのを見せた。時代離れをしているようで、ちゃらんぼらんにうわの空で話を聞いたように思う。その成蹊に昭和七年に赴任することになるのだから、ふしぎといえばふしぎな出会いといえそうだ。その成蹊小学児童の作文というのは、後年、私が成蹊学園教育研究所長時代、史料をあさっていたら、成蹊教育運動の機関誌『新教育』に載っていた。この綴り方が書かれたのは『赤い鳥』が創刊される一年前の大正六年である。芦田恵之助が『新教育』(第二巻第三号)に「与えられたる天地に個性を発揮せよ」と訴えた年である。三浦修吾は『新教育』誌上の「電信ばしら」の文章を読んで、つぎのような感想を寄せていることがわかった。

「私の年来期待していたものがはじめてここにあらはれてゐると思った。……真実の文をかくことを子供に教へ得る教師は教育の全体をよく行ひ得る教師である。」(大正六年十月三十一日)

この作品を指導したのは、成蹊小学校訓導桂田金造(かつらだ・きんぞう)で、芦田恵之助の『綴方十ニケ月』や『尋常小学校綴方教授書』(巻一)よりも早い時点で『尋常一年の綴方』(大正六年十一月二十日刊)を世に問うて、文章主義や写生主義を克服して、綴り方は生活に立脚する自己の発表、ただそれ以外の何ものでもないと喝破している。これは卓見であった。これも後で発見したことであるが三浦修吾は、成蹊実務学校の作文の教師をしていたことがある。とにかくこの『学校教師論』は、新卒の私に教育のむずかしさとともに、教育者の生きがいを感じさせたと思う。この感動を、山本郡鶴形小学校に勤務する佐々木太一郎(昂)や河辺郡にいる堀井喜一郎に書き送ったのである。

電信ばしら
成蹊小学校二年 納村泰二

学校の前に、電信柱がたくさん立ってゐます。太いのもあ
れば、細いのもあります。又線がくものすの様にたくさんつ
いてゐるのもあれば、少ししかついてゐないのもあります。
あの線があれば、どこにでも電気がつたはるのだから、面白
うございます。電気はどうしてつたはるのでせう。電信ばし
らは、ふしぎなものです。そばに行ってしづかにきいてゐる
と、いつもゴウゴウとうなってゐます。あの音はなんでせう。
電信ばしらには、鳥がとまってゐることがあります。又工夫
がのぼってゐることもあります。ちかごろでは、よく、凧の
やぶれたのがひっかかってゐます。(終)

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