三浦修吾「言と行」2008年05月23日 20:41

1917(大正6)年、3、1

言と行

言ふだけで行はなければ駄目だとよく云はれて來た。筆や口だけの人はつまらない、実行の人でなくては価値がないと、多くの人は考へてゐる。教育家などはさういふことをよく云つてゐる。けれど、言葉は決して価値のないものではない。力のないものでもない。むしろ行ふことが出來ないから言ふのである。言はなければならぬのである。実行することが出來れば、もはや言ふ必要はなくなるのである。

ラスキンの書いたものの中に、風景画家のコローが言つたことで、「自分は書き得ることについては何にも言はない、書けないことについては言ふのだ」といふことがあつた。思想するといふ事は、一の實行である。之れを言葉や文宇に発表することも、一の實行であるのである。

心にもないことを言ふ、それは虚偽である。これには無論価値もなければ力もなく、多くの場合さまざまの悪い事を伴ふ。けれど、心に起るといふこと、之を発表するといふこと。行ひの上に発表することが出來ないから、口や筆で発表するといふことは、やはり実行であつて、狭い意味での実行に比べて、価値の上からも、力の上からも、決して劣るものではないのである。

一人の人の心に生れた思想は、何処にかその表現を求めずには止まない。内部の思想が言葉によつて外に現れる。文章によつて他に伝へられる。それが他の人々の心にはいりてそこに新しき生命を起す。然してそれが實行となつて体形の上に現はされることになる。一人の思想したことが、百千人の実行の原理となることがある。百千人の思想が、凝結して、一個の人格によつて体現せられることがある。イスラエルの國に、ああした多くの豫言者が出て、彼の如き熟烈の言葉をなさなかつたら、キリストとい人は出なかつたであつたらう。

すべて人々によつて大なることの成されるはじめには必ず思想した人があり、之を口にし筆にした人があつたのである。事の爲されるはじめは何時も言論である。日本の明治の維新が成されるまでには、どれだけ多くの人が熱烈の言論をなしたことであらう。人類の歴史は言論と実行との繰り返しによつて開展して來たものである。

ルソーは言論家であつた。実行家ではなつた。けれど、火のやうな彼の思想と言葉とは、どれだけの変動を社会生活の上に惹き起さしめてゐるか。實行の出來ないのは、思想する人の体質(コンスティテユション)によることもある。時代のまだ時を得てゐないのによることもある。ルソーの場合は其の両方があつたのであらう。

實行が出來ないから、其の思想は益々内に強められ深められて、言葉や筆の上?にその出口を求めて、燃えるやうに湧くやうに外に表現されるのである。すでにこれを事實の上に行ふことが出來た時には、言論すべきことはなくなるわけで、言論を去つて、世は實行の時代に入るのである。されど奮きが既に實行された時には、更に新しい言論があらはれて來る。世はいつも實行の時代であつて、何時も言論の時代なのである。世にはいつも実行の人があり、又いつも言論の人があるのである。言論は實行を惹超し、實行は又新たな言論をひき超すのである。言論の人必ずしも實行の人でなく、實行の人が必ずしも言論の人ではない。實行の人は貴とく、言論の人は無価値だといふものではない。實行しなければならぬ人は實行すべきである。言論をしなければならぬ人は言論をすべきである。實行すべときがある。言論をすべき時がある。實行のできて言論の出來ない時がある。言論の出來て実行の出來ない時がある。言論をすべく生れて來た人がある。實行をすべく生れて來た人がある。

言論は豫言である。言論の人は豫言者である。一人の豫言者は、千百人の實行家を出し得るであらう。千百人の豫言者いでて、一人の実行家を出すことがあるであらう。言論の人の口と筆とに、燃ゆる火の如き力あらしめよ。湧出する泉の如き勢あらしめよ。言論者の目に、炬の如き光りあらしめよ。實行の出來ざるが故に、言論の人を軽視する勿れ。實行の出來ざるが故に、言論の人は自からを卑下すること勿れ、寧ろその言論の透徹せざらん事を悲しまなければならぬ。何物の上にかその表現を得なければ止まないのが生命の本質である。思想は生命である。生命の芽生である。何処にか如何なる形にてか、それが表現されずに止むものではない。實行する人は、止むを得ぬ力に促がされて實行するのである如く、言論をする人は、止むを得ぬ力に促がされて言論をするのである。實行も言論も止むを得ずして表はれるもの、生命の表現でなければならぬ。
(大正五、一一、一五)

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