児玉九十『この道50年』より2008年05月23日 20:44

この道50年 児玉九十

二、精神根底培養としての凝念、心力歌

体操や教練は、不動の姿勢即ち不動の精神を出発起点として居る。剣道でも体を交して、正眼に構えた不動の精神状態に根本を置いて居る。不動の姿勢は、体操、教練、武道のみに限った事でなく、能、狂言の如き芸事、其の他、一切の人間の活動は、仔紬に観察するならば、其の発足、根本を不動の姿勢即ち不動心に置かぬものはないのである。

体験教育の目的は、心身の一如にあるのであるが、其の一如の境地に到達する階梯としては、精神の統制、心田の開耕から出発の必要なる事は、人間活動の原則から言って当然の事である。

其の精神の統制、即ち心の整え方には色々な方法があると思う。神仏に礼拝祈願して掛るもよい。基督教の如く、常に神に吾が正念活躍を祈るもいい。又、或る故人が実行した如く、柱の節孔を定めて置いて、通過の度毎に、共の節孔を睨め付けて、眼カを練リながら心を整えたという様な方法もある。

斯く、方法は色々あって、如何なる方法でもいいと思うが、本校に於ては、之を凝念法という形に於て、毎朝毎夜、講堂に集って、職員、生徒、一緒になって実行している。

凝念のやり方は、端座(椅子、腰掛等に於ては腰を掛かけてもよし、立ったままでもやれる。何れの場合でも、身体を安定の位置に置き、端正なる姿勢を取ることが必要である)瞑目して、丹田に力を込めると同時に、精神を丹田の一点に集注せんと努力するのである。形式は静座に類し、精神は坐禅に近いものである。

斯様な方法に依って、精神統一の練習を積み、心を平静ならしめ、心を本心そのものの状態に置こうとするのである。形式はさして難事ではないが、雑念去って精神統一され不動の状態に入る事は容易な事ではない。併し此の様な精神統一の練習を続ける事に依って、段々と、精神に落着が生じ、泰然たる態度が自然に現れ、学習、作業運動等、何事に対しても、精神の集注力がよくなってくる。

斯く如く、吾々の知識の育つ苗圃を平静にし、雑念を去り、整った、統一した状態にして、知識を摂取せしめ且つ充分伸展せしめたい。そして、此の落着き払った、集注力強き精神を、一切活動の原動力としたいというのが、凝念の着眼点である。

凝念に於いては、精神統一をなすのであるが、其の精神即ち心とは何かという事を示したものが心力歌である。

心力歌には心の絶対境を示して、心の完全無欠の状態、即ち吾々の修養に依って、美化、純化、聖化された心の極致、心の神性を歌ったものである。

かくの如き尊き心という宝は、何人も所有して居るのであるが、その宝は吾々の修養に依り、光を発揮するのであるから、常に、学習、作業、その他、一切の吾々の活動、努力に依り、心を磨く事を力むべきであるという念を、心力歌の合唱に依り一層強からしめるのである。即ち、心力歌により、各自所有の心力の偉大さと、其の偉力、錬磨の必要を自覚せしめ、凝念に依りて錬磨実行の門に入らしめ、かくして得たる結果を、挙習、作業を初めとして、一切の目常生活に活現せしめたいのである。

凝念にしても、心力歌にしても、精神が大躍動する準備としての落着を目的とするが故に、徹底的に静寂を尊ぶのである。此のしんとした静けさを現出する為めには、凝念、心力歌、実施の際の凡てを静寂そのものを現出し得る様な方法にせねばならぬ。

静は東洋文明の特長であり、動は西洋文明の特長である。それ故、静寂なる気分を日本人の頭にピンと響かすためには、東洋楽器、東洋楽譜が必要になって来る。凝念の時に、鏧子という鐘を用うるのは、此の鐘の音が、東洋楽器中でも、最も取扱い易く、然も、音色に、さびと潤があって、其の軟き響は、凡ての人の心を鎮静せしむる特長があるからである。又、心カ歌の節を、お経に似た譜にしたのも、鏧子と同様、鎮静を尊ぶ心から、かくしたのである。

尚、凝念、心力歌合唱の際の静かな、落着いた雰囲気は、吾々の精神を、内観、内省に導き、自然と敬虔の念が湧き来るものである。此の敬虔の念を養う事は、人間天賦の宗教性の培養に至大の関係があるので、凝念、心力歌は一方から見れば、宗教教育の基礎教育にもなって居るのである。

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